自分の気持ち、言えますか?「行きたくない」「やりたくない」気持ちを飲み込んで生きてきた
~奪われた「やめる権利」と、今取り戻し始めた自分の感情~
「行きたくない」「やりたくない」…そんな気持ちが心を覆う日、ありませんか。
朝、目を開けた瞬間から、どこか重い気持ちが胸にのしかかって、布団から出るのも一苦労。
頭では「休みたい」と叫んでいるのに、結局、いつものように出勤準備をし、家を出てしまう。
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責任感に負けてしまう大人の日常
それは、きっと「責任感」のせいだ。
自分の意思とは裏腹に、足は自然と動き出してしまう。
大人には、こういう瞬間がたくさんある。
自分の心の声に耳を傾けたいときでも、誰かの期待や役割がそれを許してくれない。
こうやって小さな責任を一つひとつ果たしていくことが、自分を支える力になっているのかもしれない。
本来なら「行きたくない」「やりたくない」と思ったとき、人は、やめる・休む・距離を取る・助けを求めるなど、いくつかの選択肢を持てるはずだ。
ただ、子供の頃の私は、その「やめる権利」そのものを奪われていた。
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「やめる権利」が奪われていたこと
中学生の頃のわたしは、「やめる権利」がなかった。
親の監視と支配の下で、「やらない」という選択は最初から許されていなかった。
当時のわたしは恐怖で思考が停止していて、その感情すら気づけなかった。
でも、自然と涙が流れていたのは、本当は「行きたくない」という気持ちがあったからだと、今の私はわかる。
父親に24時間監視され、学校でも父親の所有物のように扱われ、同級生の前で笑いながら暴力を振るわれる。
そんな屈辱の中学生活。
学校に行きたくない気持ちは確かにあったのに、朝6時に強制的に車に乗せられて連れていかれるのだ。
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思考停止は弱さではなく、生き延びるための防御反応
恐怖が強すぎると、心は「これ以上考えたら壊れてしまう」と判断して、考えることを止める。
感じたらつらすぎるから、感じることを鈍くする。
自分を守るために、心のスイッチを切る。
これは「当時のわたしが弱かった」という話ではない。
そうしなければ生き延びられないほど、環境が危険だったというサインだ。
今の私が当時のわたしにしていること
「涙が流れていたのは、本当はその感情があったからだよ」と、今の私は当時のわたしに言ってあげられる。
ようやく長い年月、蓋をしていた感情に向き合えるようになってきた。
それは、あの時の感情を「なかったこと」にしないということだ。
「感じてよかった」「感じていたからこそ生き延びられた」と認めてあげること。
そして、監視と支配で奪われた「自分の感情を信じる力」を、少しずつ取り戻していくことでもある。
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自己開示している意味
理不尽な出来事の中で感情を飲み込み続けたまま大人になった私は、今もまだ途中経過のままだ。
それでも今は、自分と向き合うことができている。
今の生活が幸せだと感じられるようになったからこそ、やっと当時のわたしと向き合おうと思えたのだ。
この文章も、私なりの自己開示の一つだ。
同じような環境で育った人や、自分のつらい感情に向き合えずにいる誰かが、少しでも勇気や希望を持てたらいいなと願っている。
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